真岡の地名について
 
 『和名類聚抄』に「芳賀郷」という郷名があり、『下野国誌』(河野守弘嘉永3年)によると天正年間(1573~92)より芳賀を真岡と改めたとある。これを受けて『大日本地名辞書』(明治40年版)は「芳賀郷は今の真岡なり。天正中より真岡と改む。されど今も字に芳賀口、芳賀林、芳賀沼等猶存せり。また芳賀氏の古城跡もあり」と記し、真岡を「マヲカ・マウカ」と読ませている。
 しかし、真岡の地名は天正年間以前に存したことは『専修寺文書』の如来堂修理料差文(文和4年、1355年)に「まほか空円」とあり、真岡の文字は氏家町西尊寺蔵の「今宮祭祀録」の天文 18年(1549)の中に(宇都宮俊綱の討死後)「御曹司チバ芳賀重郎奉ツリ供申シ真岡ノ地ェ引篭リ」とある。また『秋田藩家蔵文書』の芳賀高定充行状写(永禄7年1564年)に「真岡へ在城」とあることによって明白である。だが、天正年間に入ると『秋田藩家蔵文書』の宇都宮国綱状写に「至当地真岡半途候」、『毛利家文書』(天正年間)の関東八州諸城覚書に「もうかのしろ」「もう賀ノ城波賀十郎」などという記事が散見する。そして真岡は「もうか」と呼んでいた。
 これが明治時代に入ると、新たな呼び方が生まれ、下野新聞(明治15年)に真岡を「まをか」と読み仮名を付している。これは前掲書『大日本地名辞書』の「マヲカ」と符号するので「まおか」と呼んでいたことがわかる。
 だが『真岡市広報誌発行規定』(昭和45年4月)に広報誌を「もおか広報」とするとあるので、真岡市としては「もおか」と呼称する統一見解を示し現在に至っている。もっとも昭和45年以前から「もおか」と呼んでいたことは『日本地名大辞典』(昭和43年)の中で奥田久(宇都宮大学名誉教授)は「もおか」と記し「もうかとも表記する。駅名もうか」と付記している。

 地名由来については諸説があり、決定的な由来については不明である。
  1. アイヌ語「マオカ」に由来し、風の強くあたる所・風の通る道の意から、台町一帯の風土がこれに該当し、マオカがモオカになったという。

  2. 真岡の真は美称で、台町一帯の丘(岡)が精美であるので、真岡になったという。

 また「ふむのあとこと」(広沢氏紀録抜書:江戸中期)の中に、........
  1. 天正以前迄大内庄芳賀とノミ唱ひ天正二至テ舞加卜唱ひ真岡とハ何れの頃か何れ人事始候哉。

  2. 御前の岡の台に鶴集まりて毎日舞たるを郷人是をみて今日も舞ふか舞ふかと云えり是真岡郷の初とかや、然るに真岡とは何れの頃にや何れの国の誰か書けり、またこの記述により、舞丘の読もあったが、いつ、どこの、誰が書いたものかは、不明である旨が記されている。

  以上が、現在知られている「真岡」の読み方の歴史及び、地名についての由来である。

 
                                      「真岡市史」の記述から抜粋